由緒

赤城神社 赤城様

主祭神  彦狭島王命(ひこさしまおうのみこと)  日本武命(やまとたけるのみこと)
 配神  宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)
 境内社 白幡八幡宮 神明宮 厳島神社 織姫神社

由緒沿革

 景行天皇55年、豊城入彦命の孫彦狭島王命が、勅を奉じ沙本毘古の乱を平らげ賞を賜り、任国毛野国に帰途の途中、春日穴作邑に至り病にて薨った。その時、任国の民が悲しんで王の屍を密かに掘り出し、毛野国伊保野の郷に奉葬し塚を造り祠を立て、狭島大明神と称して崇敬した。

 その後、田原藤太秀郷公が、平将門公の討伐を祈願して見事成就した。これをもって家臣大門・小野寺式部両人に祠再建普請奉行を命じた。

 天慶7(944)年12月25日に免田畑15町歩を寄進し、翌天慶8年(945)年3月15日に竣工した。同25日に上毛野の延喜式内社である赤城神社より日本武命を勧請合祀し、狭島を改め赤城大明神と号し、上毛野の宮を上の宮、当社を下の宮と称した。(現在も周辺の地名を下の宮と称す)以降、武門武将の尊信が厚く、田畑金穀朱印を賜る事が多かった。宝永3(1706)年2月の宗源宣旨に正一位を賜った。

 江戸中期、稲荷信仰で庶民の崇敬を集めた時期があり、社前鳥居の柱下部に稲荷の文様がある。明治6年に郷社となり、明治9年に村社となり、植野村(現在の植野地区)の総氏神様として今に至る。

 御社殿は一度焼失しており、現在の御社殿は江戸時代末期の文化文政時代に12年かけて建てられたものである。

 御祭神彦狭島王命は、家内安全、地域鎮護、日本武命は、火防、盗難除け、宇賀之御魂神は、商売繁盛、家内安全の御神徳を有す。

 明神造の青銅鳥居、神鈴は天明鋳物で出来ており佐野市指定文化財で、神鈴は天明鋳物の鈴としては最も古いものである。

 鎮守の森は、戦時中、司馬遼太郎さんが所属していた部隊が戦車を隠していた。

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